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「自覚」とは

自覚とは自ら覚る事であり本来は仏教用語です。

調べれば自覚の意味は沢山Web上にありますが、その意味で思考停止していては自覚の

本質に触れることはできません。

 

自覚は理解ではありません。

自覚は覚知でもありません。

 

自覚の本質を説明しようとした瞬間、本質はそこから消え自覚の記憶が残っています。

そこで何が起こっているか知っている「私」。起こしている「私」。

それについて明確な表現をしたとき自覚は自覚ではなくなります。

自覚の本質を伝えることは経典でも口伝でもそれ自体に価値はありません。

 

誰が自覚を求め自覚を伝えるか。

これに掛かっています。

 

自覚とは何か?

この問いを考えれば考えるほど自覚から離れていきます。

 

自覚とは、考えてわかる事を超えたところで起こるものです。

あなたという宇宙の輪郭を知る事を自覚といってもいい時期があるかもしれませんが、それは自覚ではありません。

 

なにかを意図した時、自覚から離れ始めています。

 

これらのお話がどのように語られているか知っているのは自覚でもあります。

 

自覚はあちらこちらに瞬間的に在り続けます。

 

「瞬間的に在り続ける」それを知っている状態を自覚し続けること。

 

これが究極に至る王道です。

 

自覚をそのまま知る事は、自覚を思考で規定する事ではありません。

 

あなたがすべての常識から自由になった時、自覚の本質を知っている状態に在ります。

​​                                明人

今、なぜ「自覚」が必要なのか

 現代の社会で迷いが起こるのは、自分の行動、行為について何が起こっているかはっきりわからない事に起因しています。自分の行動や言動が、どのような影響を受けながら行われているかを知っている方は多くありません。その蓄積の結果、多くの方が、仕事、家庭、その他の人間関係の中で心身を疲弊させています。


 自覚している"わたし"から見るなら、目を閉じて想像を頼りに生活を送っているように見えるのです。
 すべてが想像の範疇で繰り広げられ、想像はやがて妄想を生み、摩擦や葛藤を生む。
 そこでただ目を開いて生きる事こそが、すべての想像や妄想から自由になって、すべての迷いから解放されることになります。「ストレス社会」という言葉が定着してしまっている世の中で、自覚はあらゆる人にとって必須であるとも言えます。

自覚の有用性は

 世間では、問題が起きてから、その問題に対して対処していることがほとんどです。そしてまた新たな問題が出てきて、それに対処するということを繰り返しています。自覚をしていると、問題に対処することなく、現象が変わる。今までの常識では考えられない現象が起こっていきます。


仕事、家庭、芸術等々ありとあらゆるものについて、捉え方が変わります。

そのほんの一部をご紹介します。


【仕事】
 問題が顕在化する前に問題の発見が可能になり、仕事のプロセスにストレスをかけることなく結果を改善する事が可能になります。楽に仕事ができるようになり、今まで変わらなかった会社での評価が上がったという話も少なくありません。多くの人が悩む職場での人間関係においても、自覚をしている"わたし"であり続けることで、葛藤が生まれなくなり、人間関係でのストレスが改善していきます。


【家庭】
 針のむしろのようだった家庭においても、ストレスなくお互いが楽でいられるようになった。そんなお話をいただきます。これも問題が起きて対処するのではなく、問題が起きる前に現象が変わっているからです。お互いが相手に対して責任を押し付け合うこともなく、スムースなあり方が整っていくのは自覚において必然です。


【芸術】
 アーティストやクリエイターは、ふとしたことからスランプに陥ることがあります。

 これを心理学やコーチングなど何を試しても脱することができずに引退しようとしていた方が、一線に復帰し活躍されています。

 これもご本人が自分自身と向き合い、自覚をしていくことで、そのあり方が自然と整っていったとも言えます。

​ このようにあらゆる分野領域、あらゆるシーンにおいて自覚の有用性は実感できるようになります。

自覚と悟り

 様々な悟りの修練がありますが、それらの修練で必ず起こらなければいけない事が「自覚」です。

 悟りに近づくときは必ず自覚が起こっています。自覚が起こらなければ悟りには近づけません。

それは秘密にされているわけではありませんが、その重要性に気付き、純粋に実践しようとする者は歴史上ほとんどいませんでした。

 理由や意義に囚われて行われる自覚は本質から離れたモノになります。人間の常識的な思考ではパラドックスを生んでしまう悟り。一緒に山を登り、その景色を見せる。それができる方は世界中探してもなかなかいないようです。

 山を登り続けるのが「自覚」であり、到達した地点の景色に在ることが「悟り」です。

歩いて証明するのはあなたであり、知識を必要としない証明として確立された学問もあります。

悟りはただの通過点

 悟りというと多くの場合、至高のゴールや目的地のように捉えている方も少なくないように思います。
 差取り塾では最初の悟り「見性」は、
悟りの領域に入ってそこからあらわす準備が整ったという位置づけです。

 そこをスタートラインとし、自覚を通じて、いかに生きる事を楽に肯定的にしていくか・・・

 悟りにフォーカスしない事が、結果的に悟りが深まる速度を上げるという事を実践が証明します。それを自分や他者を通して目の当たりにできるのも、差取り塾に在籍する醍醐味でもあります。

​自覚人の生きる世界

 必然から見て書くなら、一人ひとりの純粋な思いが実現可能になると言えます。

 社会貢献を願う方は、最も合理的な社会貢献の道を選択できるようになり、家族の幸せを願う方は、想定を超える幸せの形を確信するようになります。ビジネスに重きを置く方は、多角的に見て自分にとって最もフィットしたビジネスの形を確信するようになります。

 

 このように、プロセスの前に確信がある状態は、プロセスを認識する前からプロセスが存在しているという事実を認識しないうちから知っているというあらわれなのです。

 なぜなら、確信とは、その道筋があったからこそ成り立つものであり、自覚人が確信を得る時、すでに顕在化しないプロセスを得ている事になるのです。

 このように人間の観点を超えた理解で社会を生きる事は、今までの常識を超えた思考で様々な分野で貢献する事も可能になります。

 達観した観点から見る社会は今までにないくらい鮮明に何が起こっているのか知るようになります。そのことで右往左往し考える必要もなく、何をすることが最も合理的か、問題がなぜ起こっているのかを知る事は容易であり、どんな分野においてもパフォーマンスを劇的に高めることに繋がります。実際そのような報告はたびたび自覚実践者から伺う機会があります。

 自覚人は「悟って活きる」ことでさらに悟りが深まっていきます。

​師匠がいる意味

 自覚はあなた自身が実践することが必須です。原則として自覚は一人で行うものですが、なぜ、師匠が必要なのでしょうか。これは明人自身の経験でもありますが、師匠とのやり取りの中で、一気に引き上げられる瞬間が何度もありました。自分が到達していたとしても、未知である領域を師匠が自覚させてくれた瞬間、今までの認識は一気に広がります。

 それと同時に、意識が及ぶ範囲を広げる事も師匠の仕事です。その仕事はとても大きな力を使い、体が疲弊するほどですが、それでも師匠は弟子に注ぎ続け、弟子の成長をサポートし続けていました。

 師匠との関係性が続くなら、いつまでも師匠の加護のようなものは続くようです。

 良い弟子にとって、師匠に心を開き続けるという事は、師匠が何をしなくとも、成長を促し、道から逸れる事から自分を守ることになります。

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